スウィーテスト多忙な日々

スウィーテスト多忙な日々

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計ったような博多の母方の歯型

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 悩んだ挙句、肩に突起をつけることにした。

 

 ガンダムみたいでかっこいいとか、ショルダー攻撃の威力を上げたいだとか、拘束された時に突起であごを掻きたいだとか、そんな馬鹿げた理由ではない。
 トートバックがズレ落ちるのだ。
 普段からトートバックを持ち歩いているわけではないので、その悩みに対面することはそう多くはない。しかし、ゼロではない。
 だから、だからこそ、私は悩んでいた。

 

 たまに使用するトートバックが気持ちよく肩に掛けられない。
 それだけの理由で肩に突起をつけるべきなのか。
 普通に考えるならば「否」である。
 私は常識人なので、それを誰かに相談することもなかった。そんな悩みを打ち明けられてもきっと誰もが戸惑うだろうし、「なるほどねぇ」と腕組みをしてくれたとしても、きっと真面目に考えてはくれないだろう。
 そういうわけで、私は肩に突起をつけることを長い間先延ばしにしていた。

 

 しかし。
 人生に一時停止はない。
 動いていても止まっていても、私の身体は常に終わりへの道を進んでいる。眠っている時でさえもそうだ。
 だから、悩んでいる場合ではない。
 私は肩に突起をつけることにした。

 

「肩 整形」で調べた結果を基に、私は整形外科に向かった。
 肩にはトートバックを掛けている。決心が揺らがないように。不便さを再確認するために。
 バックの中にはいくつかの突起候補が入っている。奥歯が二本と使い終えた調味料の蓋、それからペットボトルのキャップだ。
 首をかしげられながら受付と問診を終えると、すぐに診察室へと通された。

 

 丸椅子に腰かけ、トートバックの中身を取り出す。
「どれかを肩に埋めたいんですけど、やっぱり歯がいいですかね?」
 身体が拒否反応を起こす恐れを減らすには、やはり自分自身の一部を埋め込むのが一番だろうと思い、私は二本の奥歯を手に取って聞いた。この歯は私自身の奥歯である。上あごの親知らずだ。

 

「君は正気かい?」
 医師は神妙な面持ちで尋ねる。
「正気です。正気に思われないことは承知しています。笑止の沙汰でしょうが、勝機はあると思います」
 私は韻を踏んだ。
 医師は医師らしく、私の願いを真っ向から否定した。調味料の蓋とペットボトルのキャップに至っては、ゴミ箱に投げ捨てられた。
 私たちは戦った。革命には争いも伴う。避けられない事態だった。

 


「またまたぁ。嘘だぁ」
 目に入れても痛くない可愛い孫娘が笑う。
 あれから六十年近く経った。今や誰もが肩に奥歯を挿入する時代になった。突起のない不便な肩は、不憫にさえ思われる。ドラッグストアで専用のキットだって売っている。耳に穴を開けるぐらいの手軽さで事は済む時代だ。
 突起の第一人者である私の昔話を、孫娘は冗談だと相手にもしない。
「だって、おじいちゃんの肩つるつるじゃん。かわいそう」
「ははは。確かに。もういっぺん入れなおそうかねぇ」

 

 医師が私に埋めた奥歯は、肩の骨を掘り進んで今や完全に骨に埋もれてしまっている。指で撫でても、今や名残さえも感じられない。
 私の術後、挿入術はすぐに進化し、歯が埋まらないような工夫がされるようになった。歯が肩に埋もれてしまった患者は私を含め数人しかいない。技術の発展の下地となった貴重な数人だ。
 挿入術の流行とともに発展した街が「歯肩」から「博多」に変わっていったことを知る人間も、今や私を含め数人しかいない。

 

 いつか私が火葬された時、孫娘は私の肩の骨を見てようやく納得してくれるだろう。

 だから、私は死んでしまうことが少し楽しみでもあるのだ。

 

うん、チーズ。

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 たまに、家の中で異臭がすることがある。
 キッチンに置いているかごの底で人知れず腐ってしまっている野菜があるとか、どこから入り込んだのか小さなネズミが置きっぱなしの衣類の陰で往生しているとか、考えられる理由は様々だ。
 そういう時はごく一部の、発生源の周りのみが強烈に匂うものだ。

 

 ごく最近の話である。謎の悪臭に襲われる事件が起きた。
 帰宅直後にその異臭に気が付くと、私は麻薬探知犬だとかトリュフ探知ブタ顔負けの勢いで家中を嗅いで回った。顔をしかめながらここそこに鼻を突き出す。ここは臭い。あそこも臭い。

 

 唯一心当たりのあるトイレに足を踏み入れるも、意外なことにトイレ内にはあまり悪臭は侵入していなかった。
 不可解な事態に眉を顰める。
 何せ前日にニンニクペーストを大量に使った料理と納豆を食らったので、槍玉にあがるとすればトイレの流し忘れぐらいしか思い当たる節が無かった。
 あてが外れ、私は部屋の中をうろうろと徘徊する。

 

 これはいったいなんだ。何かが腐っているのか、死んでいるのか、あるいは糞便の類か。
 私は丁寧にその原因となる物質を探した。キッチン、リビング、寝室……それらしきものはどこにも見当たらない。
 となると外部から持ち込まれた何か、もしくは家の外そのものが臭いのではないかと疑い、外に出た。しかし、屋外にはその犯人らしきモノの影も形も匂いもなく、首をひねりつつも再び室内に戻る。

 

 玄関の扉を閉じ、全神経を鼻に集中させた。
 例えば犬猫の糞がその原因ならば、履いてきた靴を裏返せばすぐに解決する話である。しかしそんな簡単な、単純な臭いではない。私のインプット能力なら、犬猫の糞かそうでないかぐらい即座に判断できるのだ。脳内糞チェッカーの結果欄には、大きな赤文字で「否」と出ている。
 うんこを踏んだとか、そんな間抜けな話ではない。

 

 それならいったい……。
 私は何の気なしに靴を返し、靴底を確認した。そこに何もないとわかってはいるが、ふと手が動いた。
 アウトソールに深く刻まれた波型の溝。摩擦を味方に付けるための溝。ここにクソでも詰まっていれば、話は簡単なのに。
 ……詰まっていた。
 私は見本通りの二度見をした。クソが詰まっていた。みっしりと詰まっていた。

 

 やった、クソだ。
 随分と喜んだ。しかし、喜ぶあまり、私は金庫破りがダイヤルに耳を近づけるような具合で接触寸前の近さまで靴裏に鼻を近づけてしまった。
 迂闊だった。糞と目が合った。
 すると彼は居直ったようにフルパワーで鼻孔に飛び込んで来て、私の脳内に語り掛けた。

 

 

――私は――。
――私は、あなた方の身の内に秘められた醜さを一身に背負って産み落とされた。いわば、あなた方の分身である。
――感謝されて当然なのにも関わらず、忌み子のような扱いを受けるのは何故なのか。
――私の醜さはすなわちあなた方の醜さだ。悔い改めるべきは誰なのか、この機会に改めて考えてほしい。
――私は悪か? いや違う。真の悪とは、各々の中に存在しているんじゃあないのか。

 


 彼の声は、私の胸の鐘を強く打った。ぐわんぐわんと体が揺れる。未知との遭遇に対する驚きなどは二の次だった。
 確かにその通り。彼の言う通りである。
 糞の臭さを決して糞のせいにしてはいけない。悪いのは、臭く醜く産み落としてしまったその者自身じゃないか。
 むしろ糞たちは、敬称を付けて敬われてもいいぐらいだ。それぐらいの働きは充分にしている。

 

 私は泣いた。
 泣いて、鼻を垂らし、何度も謝った。
「ごめんね。ごめんね」と。
「いいんだよ」彼は慈愛に満ちた声で言う。「だけど――。だけど、私のことはもう忘れなさい。流し去ってしまいなさい。」
「そんな!」私は叫ぶ。
 そんなことはできるはずがない。彼の胸の内を知ってしまった以上は。
「無理だよ」私は呟いた。靴底を洗い流すこと。それは彼らを再び冒涜することに他ならない。私はもうこれ以上、彼らを悲しませたくなかった。
 私は壊れもののように彼をそっと胸に抱き、眠りについた。暖かい夜だった。

 

 翌朝、「汚ねぇ汚ねぇ」と呟きながら靴底を洗った。
 臭い物に蓋をするような人間になるな。それを言う資格は、私にはもう無い。