スウィーテスト多忙な日々

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しょっかくを使う

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触覚の本を読んでいると、面白い実験が紹介されていた。

向き合った二人が、目を閉じて握手をする。そして、「相手の手を自分が握っている」と思うタイミングで、空いている手を上げる。この時、意図的に握る強さを変えてはいけない。
この実験で何が起きるかというと、一方が手を上げている時、もう一方は手を下ろしているという。握手をするという条件がある以上、両方とも手を上げそうなものだが、そうはならないことが多いという。
さらに面白いことに、握る強さを変えていないにもかかわらず、一方が手を下ろすと同時に、もう一方は手を上げるのだそうだ。

 

つまりお互いが「手を握っている」にも拘らず、一方が「自分が手を握っている」と感じている時、同時にもう一方は「自分は手を握られている」と感じるらしい。

本当だろうか。
実際はどちらかが微妙に握力をコントロールしてしまっていて、その微差を感じ取っているだけなのではないか。だとしたらとんだ茶番だ。
実証するには、当然実験が一番だ。早速試してみたくて、私は目を瞑り、自分の右手と左手で手を握ってみた。
するとどうなるか。
驚くべきことが、起きなかった。それも当然で、左手も右手も自分なので、握るも握られるもクソもないのだ。

 

 しかし、ここで諦めると黒木瞳の名が廃る(申し遅れたが私は黒木瞳だ)。私は次の方法も考えていた。一の手がダメなら二の手三の手。この手の中で勝利の二文字が眠るまで、考えることをやめてはならない。
 私は再び目を瞑り、握手の要領で右手を差し出す。その先には何もない。虚空。エチュードをするような気分になるが、ぐっと堪える。これは芝居ではない、実験だ。
 当然、「自分が手を握っている」という感覚は無い。傍から見ればさぞ滑稽に映るだろう。恐怖さえ覚えるかもしれない。
 思考を絶つ。すると、安い腕時計から秒針の進む音が聞こえてくる。カチ、カチ、カチ。先程まで自由に流れていた時間が、一秒ごとに箱詰めされていく。そしてその箱は、自らの動力でどこかへ流れ去る。またどこかから流れてきた時間の渦が、時計の針を動かす。時計が時間を動かし、時間が時計を動かしているのだ。

 

 時の流れに逆らうように停止していると、ふと自分の行っている矛盾に気が付く。
 私はどうして左手を下ろしてしまっているのか。
 それは即ち、「自分は手を握られている」という状態を指す。現状と合致しないポーズだ。私は今、手を握られているとは思っていない。
 それなら今、取るべきポーズは決まっている。握っている時と握られている時の中間だ。「前習え」をするように、左手を前に突き出す。手のひらは地面に向けた。右手も依然突き出したまま。
 少し嬉しくなる。還暦を目前に控え、つまり六十年近く生きてきた。それなのにこのポーズをとるのは初めてで、自分にもまだ初体験が残っていたのだとつい頬が上がった。

 

 実験を始めてどれくらい時間が経っただろうか。何も持っていなくても、プルプルと腕が震えはじめた。乳酸が蓄積されていくイメージが両腕を満たしていく。
 さぁ、これはいよいよ失敗の予感がしてきた。
 しかしここで辞めていいのか。成功の瞬間は十秒後に訪れるかもしれない。あるいはその五秒後か、さらに二秒後かもしれないのに。
 私は、『黒木瞳』は、そうして今までやって来たじゃないか。数秒後に待つ成功を信じて。一歩一歩進んできた。時には長く立ち止まっても、決して辞めなかったじゃないか。
 まだ辞め時じゃない。決意を新たにした。その時だった。

 

 左手が、上がった。
 自分の起こした行動に自分で驚き、総毛立つ。
 私は今、手を握っている。確かにその感覚がある。しかし、しかしだ。そこでようやく、この実験の欠陥に気が付いた。観測者がいないじゃないか。この不思議な実験を不思議だと不思議がる目撃者がいない。一体どうすればいいんだ。
 目を開けてしまえば一部の結果はわかる。だが、また一からやり直しだ。それだけはごめんだ。

 

「瞳さん?」
 ふと声が聞こえて、ついつい私は目を開いた。それと同時に、相手の気配が消える。声の主は家事手伝いに来ている森田さんだった。
「どうなさったんですか?」
 森田さんは不思議そうな顔と声をこちらに向ける。
 違う。そうじゃない。そんな不思議がり方を求めていたんじゃない。
 実験を台無しにされたことで私は激昂してしまって、その後随分と森田さんに迷惑をかけた。誰かがその話を掘り返すと彼女も笑ってくれるが、その笑顔を見るたびに私は申し訳なくて胸が締め付けられる。


 あの時のことを思い出す度、森田さんがいなければ私はどうなっていたのだろうと背筋が凍る。
 あの気配の主は手を下げていたのだろうか?
 いつまでもそのことが気に掛かっている。

 

 


いえいえ。私は知りません。文句は黒木さんへお願いします。

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