スウィーテスト多忙な日々

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小松さんは伏し目

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「蚊はね、少しだけワープができるよ」
 赤らんだ顔の小松さんは、宙に視線を漂わせる。
 私は小松さんの視線を追って、赤茶色のペンキが塗られたバーの一角に顔を向けた。蚊が一匹飛んでいて、暖色の電球の下で消えたり現れたりしている。
「ああ、見失うときありますもんね」
「うん。ワープができるんだ」
 小松はレッドアイをちびりと舐めて、険しい顔でグラスを睨んだ。

 

 私と小松さんは大学のゼミが同じで、歳はひとつ上だけれど同じ学年で、私の方が先に卒業して就職した。彼と会ったのは卒業以来だ。
 小松さんは院の博士課程に進んだ。今や私の与り知らない高さで日々研究を行っている。らしい。
「ウチの研究室が亜空間移動に成功したのを知ってるだろう?」
「ええ。ニュースで見ました」
 小松さんの所属する研究室では宇宙に関する研究を行っていて、計算からワームホールの出現を予想したり、成層圏にバルーンを揚げて新種の微生物を捕獲しようとしたりしている。
 そんな研究室がつい最近発表した「亜空間移動」の実験映像が、一大センセーションを巻き起こしていた。名もない大学の名もない研究所の突然の発表に界隈はざわめいて、否定的な意見が相次いで、今はあちこちで検証が行われているらしい。

 

「そん中にね、蚊がいるんだよ」
 小松さんはカウンターに肘をつき、人差し指をくるくる回す。頭はだらんと垂れて、今にも寝てしまいそうだ。
「蚊って、蚊ですか?」
「そうだよ。モスキート」小松さんは思いついたようにバーテンダーを指さす。「モスキートひとつ」
 バーテンダーは身じろぎもせず、ショットグラスにトマトジュースをなみなみ注いで、カウンターにコトリと置いた。

 小松さんはそのモヒートでもモスキートでもないただのトマトジュースをぐいと一息で飲み干す。おかしな注文を普通のやり取りのように済ます二人の様子は、まるで長年連れ添った夫婦みたいだ。


「もっと早く気づいてればよかったんだよ。昔から蚊はあっちの世界を出入りしてたんだな」

 ニュースではそんなこと言ってなかった。本当だろうか。今思いついたジョークじゃないだろうか。
「そうなんですか」
「何色とも言えない空間にね、羽音が聞こえたんだよ」
 羽音?
「それってつまり……」
「そう。そうなんだよ。びっくりだろ?」

 

 フィクションとして扱われていた亜空間が本当にあって、その中に蚊がいて、さらには音がある。つまり空気があるということだ。

「もっと早く……」

 そう呟きながら席を立ったきり、小松さんは帰ってこなかった。
 小松さんの話したオカルトのような話は、日本時間の2019年7月19日22時に、航空宇宙局の発表によって裏付けられることになった。
 私がこれを聞いたのは1998年のことだ。誰も信じちゃくれないけれど、郵便番号が七桁になったあの年、私は確かに聞いたのだ。

 

 

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