世にも可愛い空気が奇妙で柔らか
淡くて半透明な緑色の空気が、風船のように庭を漂っている。彼女の名前はアイリちゃん。
台風が過ぎ、風が弱まった日、私は潮でベトベトになった車の洗車をしていた。
流水で大まかな汚れを洗い流し、泡立てたスポンジで撫でる。それから丁寧にワックスを塗り込んで、拭き取る。その最中のことだった。
右腕に柔らかな感触があった。水中でクラゲが触れたような、柔らかで不確かな感触。
けれど、そこには何もない。夜道で蜘蛛の巣の感触を覚える時のようで、少し気持ちが悪い。
それを消すように、自分の右腕にシャワーを当てた。
それが多分、アイリちゃんとの初めての接触だ。
人間の適応能力というのは凄いものだなぁと思う。一度食べた物の味を覚えるように、私の体はその感触を覚えていた。
出かける度、あるいは帰宅する度に、その感触は私の体にまとわり付くようになった。我が家の庭に、空気のクラゲが住み着いたらしい。
千切れた気団の欠片? 目に見えない程の小さな虫の集団? あるいは怪奇現象?
亡くなってしまった親族の誰かが、私に何かメッセージがあるのかもしれないと考えたりもする。
そんなある日、彼女の存在が確かなものとなる出来事が起きた。
私はその日、缶スプレーで庭のインテリアに色付けをしていた。ホームセンターで見つけたプラ製の鉢は、一つ空いていたスペースにピッタリと合うデザインだったけれど、光沢のある黒い色が唯一バランスを崩していたのだ。
庭の緑に合うように、鮮やかなグリーンと艶消しのクリアで塗装をしていると、例の感触が腕に当たる。どうも右の前腕がお気に入りらしい。
何の気なしに左手をやると、あっさりとその塊は私の手中に収まった。あまりにもあっけない捕獲に私自身が驚いてしまう。
左手は、りんごを鷲掴みしたように何かを掴んでいる。ふわりとしていて、力を入れると指の間から溢れそうな感触がある。不思議な手触りで、不思議と恐怖はない。手の中にある確かな感覚は、その何かが実在しているという証拠だ。
目の前にスプレーがある。好奇心が勝って、私は左手に向けてグリーンを吹き付けた。後になって思えば、なんとも向こう見ずな行動だったと反省する。未知のガスか何かだったら、爆発していたかもしれない。
スプレー缶から指を離す。指先はグリーン色に、心は驚きに染まった。
感触に色が加わって、ようやく物体だと認識できるようになった。それは王林のように淡い緑色に染まっていた。一秒毎に形を変えているのが目に見えてわかる。
手を開くとそれは浮かび上がって、ふわふわと庭を漂ってから私の元へ戻ってきた。
途端に可愛く思えてくる。
「AIR」に「I」を加えて、アイリちゃんと呼ぶことにした。
その日を境に世界が変わった。
私じゃない。世界が。
そんな世界だから義務も権利もどうでもよくなって、外に出なくなった。
私の世界はこの庭の中だけだ。今日もアイリちゃんと遊んで一日を終えるのだ。
end(人生の)
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