ドラマーチック
富士山に登山をする際に、ドラムセットを担いで行く、という話は聞いたことがない。
富士登山なんてしたことがないから、果たしてそれが度々あることなのかどうかすらわからない。
では、どうしてそういう話を持ち出すのかというと、彼の準備リストにそれが入っていたからである。
「山を舐めるな」
見たこともないような大きなバックパックに荷物を詰めながら我次郎は言う。
「舐めちゃいないけど、必要なのかよ」
「万全の装備で臨むのが山だ。どういうことかわかるか?」
そう言われて、私は曖昧に首をひねった。山の何たるかを何も知らない赤ん坊を憐れむように、我次郎は片方の口の端を上げる。
「つまり、山へは万全の準備で臨めってことだ」
我次郎はパンパンになったバックパックのストラップをカチリと締めて、パンパンとバックパックを叩いた。
万全の装備で臨むのが山で、つまり山へは万全の準備で臨むべきだ。これほど無駄な「つまり」があるだろうか。一つもつまっていない気がする。答えの用意されていないただのたらい回しだ。
背負う荷物だけでも随分と重そうなのに、果たしてどうやってドラムセットを持って行くというのだろう。そもそも、記憶のどこをひっくり返してみてもドラムセットを引っさげて歩いている人を見たことがない。多くの人が行きかう街中であってもだ。一体、世の中のドラマーたちはどうやってドラムを運んでいるのだろうか。
「あ、そうか」私は正解を思いついて、なるほどそういうことかと笑った。「電子ドラムね」
そもそも音楽に詳しくないので、電子ドラムというのがどれくらいのサイズや重量なのかもいまいちわかっていないが、ステージの中央ににでんと構えているようなドラムセットよりは随分と小さく、持ち運びにも便利なはずだ。
しかし、私の名推理を聞くと、我次郎は思いがけない悪臭を嗅いだ猫みたいに目を見開いて、どわっと笑いだした。
「お前、電子ドラムってなんだよ。どっから電源引っ張ってくるんだよ」
ギャグを言ったわけでもないのに、我次郎はわざわざ指をさして笑った。イメージを勝手に加速させて、初めて小島よしおを見た時のようにひぃひぃ喘いでいる。なんなんだ一体。
「お前! 富士山のてっぺんで電子ドラムって! シュールすぎ! ひぇっひぇ!」
私は顔をしかめた。話が一つも進まないじゃないか。こんなこと聞くんじゃなかったと後悔したが、ここまで来て話を中断するほど損切りが得意な方でもない。
「そんな大荷物、どうやって一回で持って行くんだい?」
ぎこちなく笑顔を作り、努めて穏やかに聞いた。奥歯がギリギリと鳴った。
「三回だ!」
我次郎は真っ直ぐに腕を突き出して言った。
「三回に分けて持って行くんだ!」
七の次は八だと当たり前の事実を言うぐらい、堂々としている。
そうか。これが、発想の転換というやつなのだ。もしくは柔軟な発想というべきだろうか。
一度で持てなければ、分けて運べばいい。一度で富士山の山頂へ運ばなければいけないという制限なんてないのだ。人生は引き返せないけれど、山頂へは何度だって登れる。ただ、大変なだけだ。
「深いなぁ」
私はついつい呟いた。
富士山へ三度も登る。ただただドラムセットを山頂へ運ぶためだけに。山頂でリズムを刻むために。こいつはくたくたにくたびれながらも、それでもいい顔でドラムを叩くのだろう。
なんでわざわざそんなことをするんだろう。気持ち悪いよ。三回って。