スウィーテスト多忙な日々

スウィーテスト多忙な日々

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うん、チーズ。

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 たまに、家の中で異臭がすることがある。
 キッチンに置いているかごの底で人知れず腐ってしまっている野菜があるとか、どこから入り込んだのか小さなネズミが置きっぱなしの衣類の陰で往生しているとか、考えられる理由は様々だ。
 そういう時はごく一部の、発生源の周りのみが強烈に匂うものだ。

 

 ごく最近の話である。謎の悪臭に襲われる事件が起きた。
 帰宅直後にその異臭に気が付くと、私は麻薬探知犬だとかトリュフ探知ブタ顔負けの勢いで家中を嗅いで回った。顔をしかめながらここそこに鼻を突き出す。ここは臭い。あそこも臭い。

 

 唯一心当たりのあるトイレに足を踏み入れるも、意外なことにトイレ内にはあまり悪臭は侵入していなかった。
 不可解な事態に眉を顰める。
 何せ前日にニンニクペーストを大量に使った料理と納豆を食らったので、槍玉にあがるとすればトイレの流し忘れぐらいしか思い当たる節が無かった。
 あてが外れ、私は部屋の中をうろうろと徘徊する。

 

 これはいったいなんだ。何かが腐っているのか、死んでいるのか、あるいは糞便の類か。
 私は丁寧にその原因となる物質を探した。キッチン、リビング、寝室……それらしきものはどこにも見当たらない。
 となると外部から持ち込まれた何か、もしくは家の外そのものが臭いのではないかと疑い、外に出た。しかし、屋外にはその犯人らしきモノの影も形も匂いもなく、首をひねりつつも再び室内に戻る。

 

 玄関の扉を閉じ、全神経を鼻に集中させた。
 例えば犬猫の糞がその原因ならば、履いてきた靴を裏返せばすぐに解決する話である。しかしそんな簡単な、単純な臭いではない。私のインプット能力なら、犬猫の糞かそうでないかぐらい即座に判断できるのだ。脳内糞チェッカーの結果欄には、大きな赤文字で「否」と出ている。
 うんこを踏んだとか、そんな間抜けな話ではない。

 

 それならいったい……。
 私は何の気なしに靴を返し、靴底を確認した。そこに何もないとわかってはいるが、ふと手が動いた。
 アウトソールに深く刻まれた波型の溝。摩擦を味方に付けるための溝。ここにクソでも詰まっていれば、話は簡単なのに。
 ……詰まっていた。
 私は見本通りの二度見をした。クソが詰まっていた。みっしりと詰まっていた。

 

 やった、クソだ。
 随分と喜んだ。しかし、喜ぶあまり、私は金庫破りがダイヤルに耳を近づけるような具合で接触寸前の近さまで靴裏に鼻を近づけてしまった。
 迂闊だった。糞と目が合った。
 すると彼は居直ったようにフルパワーで鼻孔に飛び込んで来て、私の脳内に語り掛けた。

 

 

――私は――。
――私は、あなた方の身の内に秘められた醜さを一身に背負って産み落とされた。いわば、あなた方の分身である。
――感謝されて当然なのにも関わらず、忌み子のような扱いを受けるのは何故なのか。
――私の醜さはすなわちあなた方の醜さだ。悔い改めるべきは誰なのか、この機会に改めて考えてほしい。
――私は悪か? いや違う。真の悪とは、各々の中に存在しているんじゃあないのか。

 


 彼の声は、私の胸の鐘を強く打った。ぐわんぐわんと体が揺れる。未知との遭遇に対する驚きなどは二の次だった。
 確かにその通り。彼の言う通りである。
 糞の臭さを決して糞のせいにしてはいけない。悪いのは、臭く醜く産み落としてしまったその者自身じゃないか。
 むしろ糞たちは、敬称を付けて敬われてもいいぐらいだ。それぐらいの働きは充分にしている。

 

 私は泣いた。
 泣いて、鼻を垂らし、何度も謝った。
「ごめんね。ごめんね」と。
「いいんだよ」彼は慈愛に満ちた声で言う。「だけど――。だけど、私のことはもう忘れなさい。流し去ってしまいなさい。」
「そんな!」私は叫ぶ。
 そんなことはできるはずがない。彼の胸の内を知ってしまった以上は。
「無理だよ」私は呟いた。靴底を洗い流すこと。それは彼らを再び冒涜することに他ならない。私はもうこれ以上、彼らを悲しませたくなかった。
 私は壊れもののように彼をそっと胸に抱き、眠りについた。暖かい夜だった。

 

 翌朝、「汚ねぇ汚ねぇ」と呟きながら靴底を洗った。
 臭い物に蓋をするような人間になるな。それを言う資格は、私にはもう無い。