優しさに包まれたなら
駅に着く直前、眼前のシートからアラーム音が鳴った。
油を含んだ髪の、少しふくよかな女性が眠り込んでいて、音は彼女の方から鳴っている。その他大勢の人間がそうであるように、彼女も次の大きな駅で降りる予定なのだろうか。しかし、彼女は項垂れた頭を上げる気配を一向に見せない。よほど疲れているのだろうか。
周囲の視線が控えめに彼女に向けられる。砂山に放り込まれた磁石みたいに、彼女は私たちを釘付けにしている。
目的駅はもうすぐだ。
私はごくりと唾を飲んだ。
よく見ると、女はイヤフォンをしている。きっとそのスマホで音楽でも聴いていたのだろう。でも今は、アラーム音がイヤフォンを通さずに直接鳴っている。きっと彼女の耳にはアラームがかすみがかって聞こえているか、あるいは聞こえていないのだろう。
乗り合わせたギャルは思った。
わかる。あるよねこういうパターン。
イヤフォンを通して聴いていた音楽が突然止まり、おいおいどうしたと目を落とすとアラームや着信の通知音がスマホから直接鳴っている。
イヤフォンが耳栓となって、その音はこれまた小さく聞こえるのだ。
軽快になるアラームに、彼女は一向に反応しない。恐らく、いやきっと、彼女の耳にその音は届いていないのだろう。
ギャルは彼女を起こそうかと右手を浮かせた。
乗り合わせたパーカーの男は微動だにせず彼女の荷物に目を注いでいる。
パーカーは戦っている。
録画した最終試合の結果を知りたい欲求と必死に戦っている。
話題の試合だ。スマホを開くとどこでうっかり試合結果を知ってしまうとも限らない。
ニュース速報の記事を目にしてしまうかもしれないし、友人から結果を記したLINEが届いているかもしれない。
ポケットのスマホを意識しないようにして、目の前で鳴るアラーム音をぼうっと聴きながら、パーカーは彼女の荷物を注視し続ける。
乗り合わせたサラリーマンは周辺視野を使って周りの反応を窺っている。
サラリーマンは躊躇っている。
俺が彼女を起こさなかったら、他の誰かが彼女を起こしてくれるだろうか。
サラリーマンは知らない。この女に見覚えがない。平日に、時には土日にだって使っているこの電車で、彼女を見た覚えがない。
つまり彼女が次の駅で降りる確証は無い。
アラームが鳴っているその意味が指すところはきっとひとつなのに、それでもその手を差し出せずにいる。
彼女を起こすとして、俺はどうやって彼女に触れる?
右手で? 左手で?
彼女のどこに触れたらいい?
電車は目的駅を見据え、そのスピードを緩めていく。
私たちは全員が他人なのだけれど、彼女を心配していた。
あの瞬間、私たちはきっと仲間だった。
たくさんの人が気に掛けてくれた事実が彼女に伝わってくれたら、どれほどいいだろうか。
善意は米粒だ。一つ一つが小さくても、それは確実に心の栄養になる。捨てられてしまうと心が痛む。
彼女は目的駅で降りられただろうか。
大きな駅で降りた私たちは、誰も彼女を起こさなかった。
どういたしまして。