スウィーテスト多忙な日々

スウィーテスト多忙な日々

誰かの役に立つことは書かれていません……

のいぶいいもれそ。みるぐいぬかういとうょぎんに

f:id:tthatener:20190326171631p:plain




「人形が動いた、って話、怪談好きじゃなくても一度は聞いたことがあるでしょう」
 玉木さんはグラスの水滴を指でいじりながら言った。
「子供騙し。ええ、陳腐な話ね」

 

 玉木さんに招かれ、私は彼女の家を訪れていた。
 彼女の作った夕食をご馳走になり、私の持ってきたお土産をデザートで食べ、仕事の話と人生の話をだらだらと吐き出し合う。
 夜は更け、ふと時計を見ると深夜一時半を少し過ぎている。家が近いからいつでも帰れると、ついつい長居してしまった。そんな折、彼女はぽつりぽつりとその話を語りだした。

 

 人形が動くとは、所謂怪談だ。
 私は少し面を食らった。彼女がそんな話をするなんて思ってもみなかった。
「怖い話ですか?」
 聞かずともわかる質問をした。私の感情の機微は、きっと眉辺りに表れているだろう。馬鹿にするつもりは無いが、この時代に、という思いが少なからず漏れる。どんな怖い話をするのだろうとは思えず、どんな表情を作ればいいだろうと考えてしまった。

 

「私も馬鹿らしいとは思うのよ。笑っちゃうわ。だけど……」玉木さんは困ったようにぎこちなく笑った。「本当なの」
「動く瞬間を見たんですか?」
「ううん。そこまでは」
「じゃあなんで動いたってわかるんです?」
「向きが変わってたの」
「玉木さんが触ったってことは」
「ないわ」
「一度だけですか」
「ううん、一度じゃないの……」
 女の話というものは、時として返答が難しい。必ずしも正解を導き出せばいいというわけではない。だから私のこの、最短距離を進まんとする聞き方はナンセンスなのかもしれないけれど、酔いのせいか単刀直入な質問が止まらない。

 

 それは突然起こり、突然気が付いた、というわけではないらしい。
 玉木さんの寝室にあるというその人形は、ベッドに横になり、右を向くと視界に入る方向にあるという。小物を入れたチェストの上には、件の人形を含め数体が並んでいる。
 ある夜。玉木さんはその日、なかなか寝付けなかった。眠ろうと思えば思うほど目が冴えてくるという具合で、諦めた玉木さんは寝転がりながら読書でもしようと思い電気をつけた。
 上体を起こし、ベッドに腰かける形でルームサンダルに足を入れる。玉木さんは何の気なしにチェストの上に目線をやった。
 そこで気が付いた。
 並んだ人形のうちの一体が、そっぽを向いている。
 寝室を出るついでに玉木さんはチェストの上の人形を直した。その時はまだ、人形が動いた、とは思わなかった。

 

「それがまた、動いた?」
「ええ……」
「動いていることには気づかずに直したのがその時で。その後にもう一度動いた、と。つまり人形は二回動いたということですか……」
 玉木さんがそんな嘘をつくとは思えない。酔った勢いだとしても、そんな冗談を言う人ではなかった。部屋の温度が少し下がった気がして、私はぶるりと震えた。
「ううん……」
 玉木さんが首を横に振る。私にはその意味が分からなかった。今、彼女は、何を否定したのだろう。
「私、まだ半信半疑で」心なしか、玉木さんは声を震わせる。「あれ? って思いながら、もう一回直したの。だから、三回目。ちゃんと直したの。なのに……」
「なのに……また動いていた、と」
「ええ……」
 一体だけ。その人形だけが、寝室のドアを向くのだという。いつの間にかこちらを向いている、というのではなく、いつの間にかドアを向いている。

 

 そこでようやく、私は玉木さんを信じることにした。
 万が一心霊現象だったとしても、そうじゃなかったとしても、何かが起きている。それだけは間違いない。
 それ以降、玉木さんは陽が落ちてから寝室に行くことができなくなったという。リビングで過ごし、リビングのソファで就寝し、どうしても入らなければいけない用がある時は朝、もしくは昼に。その上、入ったとしてもチェストの上は絶対に見ないようにしているのだという。
「私が見てきます」
 意を決して私は言った。口にこそしないものの、玉木さんはきっとそれを望んでいた。今日私を呼んだのだって、それが一番の目的なんじゃないか。仮にそうじゃないにしても、私は今、それを見なければいけない。玉木さんのために。

 

 玉木さんの後ろにぴったりと並び、リビングを出る。数歩進むと彼女は右手のドアを手で指した。
 ここか。
 ごくりと息を呑み、ドアの前に立つ。霊感は持っていないし、霊界というものをそもそも信じていないけれど、それでも暗い場所や心霊スポットは怖い。現在進行形で玉木さんが住んでいる家だというのに、私は廃墟に肝試しに来ているような、決して触れてはいけない「いわく」に引き寄せられるような不安な感情を覚えた。
 一度玉木さんを見てから、私はそっとドアを開けた。

 

 真っ暗な部屋だった。
 今入ったのだから当然だ。
 けれど、それだけで私の恐怖心は跳ね上がり、暗闇から今にも何かが飛び出してくるような妄想までした。
「スイッチ」玉木さんが囁くように言った。「そこ、左側に、電気のスイッチがあるわ」
 私はゆっくりと壁に手を這わせ、すぐにその突起を探し当てた。
 知らない部屋でもこうしてすぐにスイッチを見つけられるのは、決して私の特殊能力ではない。大抵のスイッチというのは、これぐらいの高さにあるのだという。具体的な数字で言うと、120センチぐらいだったっけ。恐れを遠のけるように、私は無関係な雑学に頭を回した。
 パチ、スイッチが鳴り、すぐに寝室の姿が浮かび上がる。
「ひ、左……」再び玉木さんが囁く。
 ドアを入って左手、スイッチのさらに奥に、件の人形はあるのだという。
 恐る恐る、私はゆっくりと左側に目線を向ける。息をするのも忘れていた。

 

 壁沿いに並んだいくつかの荷物の向こうに、チェストはあった。
 白くて艶のある、恐ろしさの欠片もない可愛らしいチェストだ。
 大丈夫、大丈夫。自分を勇気づけるようにして、私は徐々に目線を上げていく。
 そして、私の両目は、しっかりとその人形を、その一体を捕らえた。
 目が合った。
 しっかりと。
 玉木さんの言う通り、一体だけが、明らかにドアの方を向いていた。

 
「帰ります」
 私はそう呟いた。
 大きい、かわいい、
 イーブイの人形だった。

 

優しさに包まれたなら

f:id:tthatener:20190930212000p:plain


 駅に着く直前、眼前のシートからアラーム音が鳴った。

 油を含んだ髪の、少しふくよかな女性が眠り込んでいて、音は彼女の方から鳴っている。その他大勢の人間がそうであるように、彼女も次の大きな駅で降りる予定なのだろうか。しかし、彼女は項垂れた頭を上げる気配を一向に見せない。よほど疲れているのだろうか。
 周囲の視線が控えめに彼女に向けられる。砂山に放り込まれた磁石みたいに、彼女は私たちを釘付けにしている。
 目的駅はもうすぐだ。
 私はごくりと唾を飲んだ。

 

 よく見ると、女はイヤフォンをしている。きっとそのスマホで音楽でも聴いていたのだろう。でも今は、アラーム音がイヤフォンを通さずに直接鳴っている。きっと彼女の耳にはアラームがかすみがかって聞こえているか、あるいは聞こえていないのだろう。

 

 乗り合わせたギャルは思った。
 わかる。あるよねこういうパターン。
 イヤフォンを通して聴いていた音楽が突然止まり、おいおいどうしたと目を落とすとアラームや着信の通知音がスマホから直接鳴っている。
 イヤフォンが耳栓となって、その音はこれまた小さく聞こえるのだ。
 軽快になるアラームに、彼女は一向に反応しない。恐らく、いやきっと、彼女の耳にその音は届いていないのだろう。
 ギャルは彼女を起こそうかと右手を浮かせた。

 

 乗り合わせたパーカーの男は微動だにせず彼女の荷物に目を注いでいる。
 パーカーは戦っている。
 録画した最終試合の結果を知りたい欲求と必死に戦っている。
 話題の試合だ。スマホを開くとどこでうっかり試合結果を知ってしまうとも限らない。
 ニュース速報の記事を目にしてしまうかもしれないし、友人から結果を記したLINEが届いているかもしれない。
 ポケットのスマホを意識しないようにして、目の前で鳴るアラーム音をぼうっと聴きながら、パーカーは彼女の荷物を注視し続ける。

 

 乗り合わせたサラリーマンは周辺視野を使って周りの反応を窺っている。
 サラリーマンは躊躇っている。
 俺が彼女を起こさなかったら、他の誰かが彼女を起こしてくれるだろうか。
 サラリーマンは知らない。この女に見覚えがない。平日に、時には土日にだって使っているこの電車で、彼女を見た覚えがない。
 つまり彼女が次の駅で降りる確証は無い。
 アラームが鳴っているその意味が指すところはきっとひとつなのに、それでもその手を差し出せずにいる。
 彼女を起こすとして、俺はどうやって彼女に触れる?
 右手で? 左手で?
 彼女のどこに触れたらいい?

 

 電車は目的駅を見据え、そのスピードを緩めていく。
 私たちは全員が他人なのだけれど、彼女を心配していた。
 あの瞬間、私たちはきっと仲間だった。
 たくさんの人が気に掛けてくれた事実が彼女に伝わってくれたら、どれほどいいだろうか。
 善意は米粒だ。一つ一つが小さくても、それは確実に心の栄養になる。捨てられてしまうと心が痛む。
 彼女は目的駅で降りられただろうか。
 大きな駅で降りた私たちは、誰も彼女を起こさなかった。
 どういたしまして。