スウィーテスト多忙な日々

スウィーテスト多忙な日々

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ナマケモノが絶滅してさ、名前が空いたらさ、僕がもらうよ

 

 私は今、座り心地のいい椅子に行儀悪く腰かけて、目線の高さにレモンを掲げている。
 何をしているのかと自問自答するならば、その答えは一つ。レモン観察だ。

 

 事の発端は、レモン越しに見える掛け時計にある。私は強烈に重大な真理を知ってしまった。

 

 深夜三時三十五分のこと。ぼうっと、見るともなしに時計を眺めていた。いつか誰かからもらった、木製で二針式の掛け時計だ。
 長針が南南西に傾いて、「7」の足(と私は呼んでいる)の斜線とキレイに重なっている。
 こういう瞬間・場面がなんとなく好きだ。例えばビルとビルの間にきれいに満月が収まっている瞬間。あるいは太陽が沈むときに、ぴったりなサイズの建物の奥に消えていく場面。
 デジタル時計でゾロ目を見た時の感覚に近い気もするけれど、それよりもずっと気持ちがよくて。自分だけの感覚であってほしいけれど、誰かと共有もしたい。曖昧だ。

 

 そんなことを思いながら時計を見ていて、とてつもない絶望を覚えてしまった。
 針が、長針が、動いているのだ。すごく、ものすごく、ゆっくりと。
 時計というものはそもそもそういうものだ。長針が動いて、短針が動いて、時間の経過を知らせてくれる。しかし私は、長針がじりじりと進んでいくのを見て、確実にこの世の時間が進んでいっていることに、そこでようやく気が付いたのだ。
 時間は、「いつの間にか」過ぎているのではない。「まさに今も」進んでいるらしい。

 

 ふと先日食べたバナナを思い出した。あれだってそうだ。ちょっとずつ、のろまなスピードで熟していくから、「早く食べなきゃいけない」という焦りをなかなか覚えられない。気が付いた時には随分と黒色に侵されている。
 進んでしまった時間も、熟れすぎたバナナも、元に戻ることはないのだ。今のところそれは絶対に。

 

 それに気が付いた私はキッチンに向かい、先日買ったレモンを冷蔵庫から取り出した。そして今に至る。

 

 時計の長針はぼうっと眺めるのに向いていない。決して戻らない時間を目にしながら呆けてなどいられないからだ。
 どうせぼうっと眺めるならもっと別の物。普段は気にもしないような、だけどきっと興味深いもの。
 それがレモンだ。

 

 よくよく見てみると、レモンというのは実に嘘臭い発色をしている。鮮やかだ。「鮮果」の二字にうってつけの色合いで、どうも都合がよすぎるほど黄色い。
 このぼつぼつした皮の内はどうなっているのか。さらに内側、薄皮を隔てたその果実は、八つに分かれているのだろうか。それとも十か。あるいは奇数?
 包丁の刃が入る様子を想像をする。横から真っ二つにしてきれいな断面を見ようか。あるいはつむじとお尻を結ぶように縦に切ってみようか――。

 

 防腐剤に侵されきって不死となってでもいなければ、私の凝視と監視を潜り抜けて、このレモンも確実に腐敗へと向かっているのだろう。
 ただし、とてもゆっくりだ。
 そして、幸いなことに、ゆっくりと腐っていくレモンよりも、私の寿命は長い。多分きっと。
 だから安心して眺めていられる。レモンが腐りきって掌から零れ落ちるまで、ぼうっとしていられる。
 それから動き出せばいい。

 

 長針め。焦らすんじゃないよ。全く。