自由は二次元
「自由でいいのよ」
僕は、夏休み前にクラス全員に向けられたその言葉を、今度は一人で受け止めていた。
担任の岡部先生は、低学年の児童からおかべぇ先生と呼ばれている。今はそのおかべぇ先生と、僕の二人しか教室にいない。居残りだ。おかべぇ先生は自席で赤ペンを握り、「シュッ」と「シュッシュッ」を繰り返している。採点中だ。
「自由でいいのよ」
微動だにしない僕に向かい、顔も上げずに先生は繰り返す。
怒ってなんかいないわ、とでも言っているようで、表情一つ変えない。
自由でよい、と定規をこちらに託しているのだから、一人放課後に縛り付けられている理由が尚更わからない。僕は確かに自由研究を提出したのだ。
終業式後のホームルームで、僕は方眼ノートに「自由研究」の四文字を意味もなく書き続けていた。自由研究のテーマを端から決めているという児童はそう多くはないだろう。例に漏れず、僕もそのうちの一人だった。
自由研究、自由研究、自由研究……。
一年前よりきっと頭が良くなったはずなのに、何もテーマが浮かんでこない。もしかしたら、一年前より頭が良くなったからこそ研究したいような知らないことが減ってしまったのかもしれない。
自由研究、自由研究、自由研究、自由研究……。
何を書いているんだか自分でもわからなくなってきた辺りで、僕はふと気がついた。
大発見だ……。
次のページにデカデカと「自由研究」と書くと、その下にまたデカデカと一文を書き加える。
「問題。自由の中にあるたてとよこを見つけなさい」
思わず鼻が膨らんだ。よし、これでいい。
ページを破ると、夏休みの宿題の束に潜り込ませた。
そして、夏休みが始まって、夏休みが終わった。たくさん遊んだけれど、もちろん宿題は全部終わらせた。自由研究だってそうだ。
どうしてあれじゃあダメだったのか。
どうして先生はあれを認めてくれないのか。
僕はその理由を知っている。きっとそうだ。
おかべぇ先生は、あの意味がわからないのだ。解けない問題に腹を立てているのだ。大人気ないから、問題の答えを教えて、と僕に聞くこともできず、自由研究を出し直しなさいと言いつけているのだ。
自由研究と何回も書き続けて、僕は「自由の中にあるたてとよこ」を見つけたのに。
なるほど。
つまり、そうだ。自由研究と書き続けたこと自体が僕の自由研究で、その成果が「自由の中にあるたてとよこ」を見つけたことだったのだ。
ということは、僕の自由研究には少し足りないところがあったと言える。
僕は方眼ノートを取り出し「自由研究」ですし詰めになったページを切り取って、先生の元へ向かった。
「どうしたの?」
先生は薄く笑みを作る。にせものの笑い顔だ。
「自由研究を研究したら、自由の中にたてとよこがあったんです」
僕は自由研究の四文字を研究したのだ。その過程を見せてあげたらいいはずだ。
「あのね…」
四字の集団でぎゅうぎゅう詰めになった方眼紙をチラと見ると、困ったような、呆れたような顔で先生は言った。やっぱり、きっと、たぶん、答えがわかっていない顔だ。
自由の中にあるたてとよこ。
きっとまだ、誰も知らない大発見だ。
先生に答えを教えるのはまだよしておこう。
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宙からのカレー
夢を見た。
大木にロープを括り付けたいのだけれど、ロープそのものが無い。ならばと私たちは頷きあい、道の傍らに植わっているサトウキビをしゃくりしゃくりと噛み始める。噛んで繊維をほぐすことで、大木に括り付けるための柔らかさを生み出そうとしたのだ。
目が覚めると、寝間着の首元がびっしょりと濡れていた。局地的豪雨が降ったらしい。それも随分と粘性のあるヤツだ。
ベッドを出てベランダの窓を開けると、雨の気配一つない透き通るような青空だった。シャワーを浴び、すぐに家を出た。
三連休だ。
大量に買い出しをして自炊三昧を決め込もうと決意し、スーパーマーケットに向かう。入り口で安売りの玉ねぎを目にした瞬間、メニューが決まった。この連休は華麗なる日々にしよう。
馴染みの顔ぶれをかごに入れて、ルーを選ぶ。何の気なしに甘口を手に取ってかごに収めたが、はたと気が付き、中辛に入れ替えてレジへ向かった。
「命の恩人は?」と問われることがあるとしたら、私は間違いなく「カレーです」と答えるだろう。
インタビュアーにいくら怪訝な表情をぶつけられたとしても、その答えはきっと変えない。何せその通りなのだ。命綱がなければ死んでいた人がいるように、私はきっとカレーがなければ死んでいた。多感な年頃のほろ苦い体験に傷ついた頃、あるいは仕事に対する緊張感で常に胸が早鐘を打っていた頃、食道が厳しい入場制限をかける時期が幾度かあった。そんな狭き門をも潜り抜けて私を生かしたのが、他でもない彼、カレーだった。
もしもこの世にカレーがなかったら、地球はもっと殺伐としていただろう。いや、そもそも、人類を何度リセットしても、カレーだけは変わらずに生まれる仕様になっているのかもしれない。
それぐらい私にとって、いや人類にとって最も必要不可欠なエレメントの一つなのだと思う。きっとそうだ。
私はよく甘口のカレーを作った。カレーが私にとっての命綱だったことも理由の一つだけれども、甘口を選ぶことは、他ならぬ祖母のためだった。
自分で料理を作れなくなってしまった祖母は、歯も弱り、痴呆も進み、食わず嫌いが増えていった。米、肉、野菜、どれか一つでも、ほんの少しでも硬ければ箸が進まなくなってしまうし、味付けが濃いと感じればそれもまた同じであった。そんな祖母のお眼鏡に適う数少ない料理が甘口のカレーだった。
でももう、そんなことは気にしなくてもいいのだ。歯ごたえのある肉を入れてもいいし、硬く炊いた米を使ってもいい。中辛にしたって当然誰にも文句は言われない。そんなわけで随分と久しぶりに中辛のカレーを作った。
ゆっくりと、じっくりと作った中辛のカレー。ごはんとルーを半々の割合で口に運び入れる。
よく噛んで飲み込む。甘みと辛みの混ざり合った程よい味わいが染み込んでいく。
どこからか、「ありがとう」と聞こえた気がした。
……。
家の中に、誰かいるぞ……。
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