磯は尖っていて危ないけれど、川の石は丸い。どっちも硬いよ。
ゾウもねずみも、一生のうちに打つ心臓の拍子の数はだいたい同じなのだという。
どこかで聞きかじった情報なので、もしかしたら都市伝説めいたうわさ話に過ぎないのかもしれないけれど、もしそうだとしたらロマンもクソも無いので改めて調べることはしていない。
あんなに大きなゾウと、あんなに小さなねずみの心臓の出番が同じ数あるなんてちょっと信じがたい。けれど信じてみたい。不思議な話だ。
考えてみると、ゾウの心臓が駆け足で動いているイメージは無いし、逆にねずみの心臓が悠長にあくびをしているイメージもない。
ゾウは大きな体に埋まった大きな心臓をゆっくりと動かすことができて、だから長く生きられる。ねずみは小さくてせっかちで、心臓だって右にならえ。ゾウから見ても、私たちから見ても短命だ。
ゾウは大きくてねずみは小さいから、心臓が鼓動する速さはその体の大きさによるのだ、と早合点してしまいそうになるけれど、大きくたってあまり長生きしない生き物だっている。多分いる。知らないけれど。
だから、心臓というカウントダウン式のカウンターをゆっくりと押せる者ほど長く生きられる、ということだろうか。
つまり、心臓は消耗品という訳なのだろう。
大きく考えれば生きとし生けるもの自体全てがこれ消耗品とも言えるのかもしれないけれど、そんな屁みたいな理屈の話をしているのではない。
正月を迎えられるのも実はあと五十回を切っているのかもしれないのと同じように、心臓が拍子を打てる回数も実はあと……というところまで迫っているのかもしれない。
心臓の動く一拍が、死へのカウントダウンというわけだ。
ゾウもねずみも同じだと言うなら、多分人間も同じなのではないだろうか。
人間の死因というのは自然界に暮らす他の動物たちと比べて随分と多岐にわたる。中毒死、事故死、過労死、殺人、自殺。
そうでなくても、人間は死に際大抵病気になる。体が弱り、病を患い、満身創痍で死んでいく。
ああ、心臓が上限に達したのね、と納得して弔ってやれることはそうそうない。大往生とはなんとも遠く狭い道の先にある。
普段、心臓が慌てていることに危機感を覚えることはないのだけれど、そういうわけだから、長生きをしたいのであれば気を付けるに越したことはない。
恋多き女も、小心者の男も、それを知ったらきっと少しは生き方を変えることだろう。
深く息を吸い、どっしりと構える、考え深い人間が増えるに違いない。
ああ、そういうことに、生きている内に気付きたかったなぁ。
と、我が家に住み着いたクジラが言う。
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あたしたちのあした
「わたし」は「私」だ。
当然、「私」は「わたし」と読む。
「あたし」はつまり、「わたし」のにせものだ。
「わたし」に並ぶようにして、何食わぬ顔で、にせものは居座り続けている。
「せんたっき」ですら「洗濯機」に変換してくれる柔軟な時代においても、「あたし」に「私」をあてがってくれないことは多々ある。
それぐらい「あたし」は軽んじられている。それなのに「あたし」は何とも思わないで、「わたし」と肩を並べて歩くのだ。
「あたし」って何者だ。
「あしきべんじょ」はとんでもなく邪悪そうで、「アンピース」だと服として認められるわけはないし、「あんちゃん」は二足歩行になってしまう。
それぐらい「わ」と「あ」の間には隔たりがあるのだ。それぞれ別の一音として生み出されたのだから、それは当然だ。
なのにどうして「あたし」はこうも平然としていられるのだろう。
厚顔無恥とはこのことだ。
でも、本当は、私は「あたし」のことが羨ましかったりもする。
「あたし」は「あたし」としてのプライドがあるのだろう。
だから「あたし」と言うし、決して「わたし」と言うことはない。そんなことをしてしまうと、途端に「わたし」に取り込まれてしまうだろう。
本来そうあるべきなのだろうけど、そうしなかったからこそ「あたし」は「あたし」でいられるのだ。
私は「あたし」に嫉妬している。
「あたし」が「あたし」と名乗る。「あたし」は、それだけでアイデンティティを確立しているのだ。
「なぁ、『わたし』?」
私はおずおずと話しかける。
「あ?」
「あたし」は私がどういう思いで話しかけたのか気にしないし、自分が発した一語が相手にどう受け取られるかも気にしない。
「僕ら、そろそろさぁ……」
「わるい、後にしてくんない?」
私は「あたし」が嫌いだけど、どうしても離れられないのだ。
あたしたちはそういう関係だ。
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