Heart to heart
「ハトが電線に止まっても感電しないのはなんで?」
秀夫が言った。秀夫は子供だ。
そんな質問をするなんてまだまだ子供だ、という意味ではない。私の子供だ、という意味だ。
子供が子供らしい疑問を持つのが当然であるように、大人である私がその問いの答えを知っているのが当然だと秀夫は思っているのかもしれない。そして生憎、その答えを私は知らない。
「ハトが電線に止まっても感電しないと思っているのかい?」
知らないとは言えず、質問に質問を重ねる。
「感電してないから電線に止まってるんでしょ?」
「充電しているのかもしれないね」
「ハトは充電しないよ」
秀夫は頭がいい。ハトが充電式ではないことを九歳にして既に心得ている。
右ポケットに入っているスマートフォンを取り出せば、たちどころに解決してしまう疑問だろう。けれど、それをしてしまっていいのだろうか。秀夫の何倍もの年月を生きてきて、ハトが感電しない理由も知らず、困ったら他人の知識を簡単に呼び出して答える。そんな大人だと秀夫には思われたくないし、私自身そうありたくない。
「雨も感電しないね」
ふと気が付いて言った。
「ほんとだ」
「ってことは、感電しないようになってるんじゃないのかな?」
そりゃあそうか、と改めて思った。触ると感電するような危険な物が、そのままほったらかしになっているわけがない。だけど、「感電しないようになっているからだよ」とはなんとも面白くない答えに思える。
「でも、僕ニュースで見たよ。サルが感電してるニュース」
「ほんとだね」
「雨だってほんとうは感電して死んでるのかも」
落ちてきた雨粒は、電線に当たって死んでしまった――。なんだか詩的だ。
「いいね」
「なにが」
それはそうと、仮説は崩れてしまった。じゃあ一体どうして? こうなると私と秀夫は質問者と回答者という立場じゃなくなって、同じ場所から頭を捻るしかなくなってしまう。
「サルは感電して、ハトは感電しない。じゃあ人間は?」
「するだろうね」
「ハトのマスクを被ったら?」
面白い事を考える子だ。私はつい笑ってしまった。
「しないかもね」
「じゃあ、やってみようよ」
そう言うと、秀夫はおもちゃ箱からハトの被り物を二つ取り出した。写実的なデザインで少し気持ち悪いが、これなら電線も本物と見紛うかもしれない。
果たして、私たちはそういう理由から電柱を這い上がり、感電し、羽もないのにお空へ飛んでいくことになってしまった。
転生したらハトになろうか。
溶けて顔に張り付いた被り物は、もう外れることはない。
あいてるよおじさん
小説家である。
誰もが知るような文豪ではないが、一本で食っていける程度の稼ぎはある。
だがしかし、私は今、長いトンネルの中にいる。もう随分と長い期間書けていない。 題材はあるのだ。いや、むしろそれが問題でもある。
「あいてるよおじさん」
この題材が思い浮かんだ時、私は乱舞せんばかりに喜んだ。テーマだけで成功を確信できることなんて、短くない作家人生において一、二度あるかないかの貴重なものだった。
物語を作るにあたって、アプローチの方法はいくつもあるだろう。時系列に沿って作ることもあれば、結末から逆再生して考えることも多い。しかし、「これだ」という物語が出来上がるときというのは、どちらにも該当しなかったりもする。一から十までとはいかないまでも、ほとんどが出来上がった状態で突如として脳内に降りてくるのだ。
そうなれば後は少し色付けをするだけでもいいし、悲劇を喜劇にひっくり返すことだって容易い。
だが今回はそうはいかなかった。間違いなく面白い作品が出来上がるはずなのに、一体どうしてしまったのか。
散歩をしては考え、長風呂に浸かっては考え、料理店や電車の待ち時間で考え。
あらゆるタイミングで彼のことを考えた。
物語は何度も始まり、終わりを迎えたが、そのどれもが満足のいくものではなかった。それならそれで仕方ないと割り切れればよかったのだが、何故か私は「あいてるよおじさん」を使い捨てられずにいた。
しかし、考えても考えても、いつまで経っても納得のいく物語ができないので、私はついついそれを他人に吐き出してしまった。
それがよくなかった。
「あいている」
という題の小説が世に出たのは、それから一年と経たない年の瀬だった。
作者は私ではない。旧知の仲である森本という男だ。そう、私が不調を打ち明けた人物である。
盗られたという気持ちはなかった。むしろ上手いこと料理してくれるのなら、とさえ考えて話したのだ。
だからこそ私は、森本の産んだ物語に納得ができなかった。あいてるよおじさんはもっと綺麗で、汚くて、高潔でなければ――。
森本のマンションを訪れ、抗議した。
自分でも筋が通っていないとは思う。まぁまぁとなだめていた森本も、私と共に徐々にヒートアップし、結局、決裂してしまった。
しかし随分と高いマンションに住んでいる。
下るボタンを押すと、十以上も上の階からエレベーターが下りてくる。
ようやく到着した箱に乗り込む。先客がいた。
中年・もしくは高齢と言ってもいいかもしれない。男は私に軽く会釈をした。くるりとドア方向に向き直りつつ、こちらも軽く会釈を返す。
「何をされていたんですか?」
下降を始めたエレベーターの中で、背後の男に尋ねた。
見知らぬ男に突然そう話しかけられたら、返事をするだろうか?
独り言だと思うかもしれない。会話がしたかったわけでもない。ぽん、と口から出たのだ。
「あいているか、あいていないか、確認していたんです」
少しの空白の後、男は言った。
私は振り返った。男が右手に握ったメモ帳を見て、さらに尋ねる。
「何か、メモを?」
ええ、と男は胸元へメモ帳を掲げる。
「拝見しても?」
「どうぞ」
あっさりと言い、男はメモ帳を開いた。どのページにも、びっしりと数字が羅列されていた。
「これは、なんでしょう」
「さぁ」
「これでなにか、覚えられるのでしょうか」
「覚えられないことは、ここに。覚えられることは、ここに」
そう言って、男はメモ帳と頭をそれぞれトンと叩いた。
「何のために」
そう聞いたところで、エレベーターが一階に着いた。短くも長い会話が終わる。
ありがとう、とどちらかが言い、どう致しまして、とどちらかが返して、私たちは別れた。
来た時に降っていた雨は、もう止んでいた。
彩りもとうに寝静まった深夜、ビル街の路地裏の風景は、それはそれは美しかった。
街灯の白と、それに返すアスファルトのグレー。降り続ける黒い夜が、おじさんの後ろ姿を見え隠れさせていた。