スウィーテスト多忙な日々

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あいてるよおじさん

 

 小説家である。
 誰もが知るような文豪ではないが、一本で食っていける程度の稼ぎはある。
 だがしかし、私は今、長いトンネルの中にいる。もう随分と長い期間書けていない。 題材はあるのだ。いや、むしろそれが問題でもある。

 

「あいてるよおじさん」
 この題材が思い浮かんだ時、私は乱舞せんばかりに喜んだ。テーマだけで成功を確信できることなんて、短くない作家人生において一、二度あるかないかの貴重なものだった。
 物語を作るにあたって、アプローチの方法はいくつもあるだろう。時系列に沿って作ることもあれば、結末から逆再生して考えることも多い。しかし、「これだ」という物語が出来上がるときというのは、どちらにも該当しなかったりもする。一から十までとはいかないまでも、ほとんどが出来上がった状態で突如として脳内に降りてくるのだ。
 そうなれば後は少し色付けをするだけでもいいし、悲劇を喜劇にひっくり返すことだって容易い。
 だが今回はそうはいかなかった。間違いなく面白い作品が出来上がるはずなのに、一体どうしてしまったのか。

 

 散歩をしては考え、長風呂に浸かっては考え、料理店や電車の待ち時間で考え。
 あらゆるタイミングで彼のことを考えた。
 物語は何度も始まり、終わりを迎えたが、そのどれもが満足のいくものではなかった。それならそれで仕方ないと割り切れればよかったのだが、何故か私は「あいてるよおじさん」を使い捨てられずにいた。
 しかし、考えても考えても、いつまで経っても納得のいく物語ができないので、私はついついそれを他人に吐き出してしまった。
 それがよくなかった。

 

「あいている」
 という題の小説が世に出たのは、それから一年と経たない年の瀬だった。
 作者は私ではない。旧知の仲である森本という男だ。そう、私が不調を打ち明けた人物である。
 盗られたという気持ちはなかった。むしろ上手いこと料理してくれるのなら、とさえ考えて話したのだ。
 だからこそ私は、森本の産んだ物語に納得ができなかった。あいてるよおじさんはもっと綺麗で、汚くて、高潔でなければ――。
 森本のマンションを訪れ、抗議した。
 自分でも筋が通っていないとは思う。まぁまぁとなだめていた森本も、私と共に徐々にヒートアップし、結局、決裂してしまった。

 

 しかし随分と高いマンションに住んでいる。
 下るボタンを押すと、十以上も上の階からエレベーターが下りてくる。
 ようやく到着した箱に乗り込む。先客がいた。
 中年・もしくは高齢と言ってもいいかもしれない。男は私に軽く会釈をした。くるりとドア方向に向き直りつつ、こちらも軽く会釈を返す。
「何をされていたんですか?」
 下降を始めたエレベーターの中で、背後の男に尋ねた。
 見知らぬ男に突然そう話しかけられたら、返事をするだろうか?
 独り言だと思うかもしれない。会話がしたかったわけでもない。ぽん、と口から出たのだ。
「あいているか、あいていないか、確認していたんです」
 少しの空白の後、男は言った。

 

 私は振り返った。男が右手に握ったメモ帳を見て、さらに尋ねる。
「何か、メモを?」
 ええ、と男は胸元へメモ帳を掲げる。
「拝見しても?」
「どうぞ」
 あっさりと言い、男はメモ帳を開いた。どのページにも、びっしりと数字が羅列されていた。
「これは、なんでしょう」
「さぁ」
「これでなにか、覚えられるのでしょうか」
「覚えられないことは、ここに。覚えられることは、ここに」
 そう言って、男はメモ帳と頭をそれぞれトンと叩いた。
「何のために」
 そう聞いたところで、エレベーターが一階に着いた。短くも長い会話が終わる。
 ありがとう、とどちらかが言い、どう致しまして、とどちらかが返して、私たちは別れた。

 

 来た時に降っていた雨は、もう止んでいた。
 彩りもとうに寝静まった深夜、ビル街の路地裏の風景は、それはそれは美しかった。
 街灯の白と、それに返すアスファルトのグレー。降り続ける黒い夜が、おじさんの後ろ姿を見え隠れさせていた。