スウィーテスト多忙な日々

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おばあちゃんち

 

「おばあちゃんちに行ってくる」
 と言って、良太は今日も家を出た。

 

 小学三年生の息子は、あまり外交的とは言えず、たとえ家の中であっても口数が多くない。
 そんな子だから、学校でいじめられていやしないかと心配したりもしたが、日々の様子を見るにそんなことはなさそうだ。
 しかし、だからといって完全に安心もできないのは、良太の内向性の結果であろう友人関係の少なさのせいだ。

 

 帰宅しリビングで宿題を終えると、おやつも食べずに近くへ住むおばあちゃんの家へ向かう。私から見ると義理の母の家だ。
 友達と遊ばず、家でゲームもしない。おばあちゃん子と言えば聞こえはいいが、ひいき目に見ても毎日通って楽しいような場所ではない。
 夫に相談したこともあったが、「悪いことではないんだし」と気にも留めていない様子だった。
 いつかは悪友や恋人ができたり、その他のことにも興味が出るだろう。それまでは大人しく見守ってやろう、と夫に言われ、確かに無理強いすることでもないと私も思うことにした。

 

 ある夜のことだ。
 夕食の洗い物を済ませソファに腰を下ろすと、良太のリュックが目に入った。大きく開いた口から、包装紙にくるまれた赤い箱が覗いている。
 尋ねると、「おばあちゃんから」と良太は言う。お菓子をもらったというのだ。
「あらまぁ。お礼の一つもしなきゃ」
 あなた、と言うと、テーブルの携帯電話を手に取り、夫はすぐに電話を掛けた。理解力だ。
「もしもし。ああ、うん、俺。……うん、元気。いや、お菓子ありがとうね。……ん、何?」
 電話を耳に当てながら、夫は私に怪訝な顔を向ける。
「うん、今日。え、じゃあ、ちょっと前かも。あ、そうなの。いや、じゃあいい。うん、ありがとう」
 電話を終えると、夫は言った。
「実家には随分来てないって、お母さんが」
 私は眉をひそめる。

 

「良太。これ、いつもらったの?」
 テレビに夢中の良太に尋ねる。私たちの会話など気にも留めていなかったのか、良太は「え」とだけ返した。
「これ、お菓子。いつもらったの?」
「おばあちゃんって、裏山のおばあちゃんだろ?」
 私の質問に、夫も質問を重ねる。私たちは夫の実家のことを「裏山のおばあちゃんち」と呼んでいる。
「違うよ」
 と良太は私たちの顔を見た。いつもの顔だ。嘘をついたり、ごまかしている様子もない。

 

 裏山のおばあちゃんちだろう?
 違うよ。
 同じ質問と回答をもう一度繰り返すと、夫は地図アプリを開いて良太に見せる。
「違うよ」
 と良太は同じ答えを同じ声色で言った。
 それなら一体誰なのだ。場所を訪ねると、画面をすいすいと動かして良太は一軒の家を指差した。
 知ってる? 
 いや、知らない。
 私たち夫婦の知らない家だった。

 

 画面を操作し、ストリートビューを見る。件の家をアップにすると、「岡田」と書かれた表札が映っている。
 ここ? と尋ねると、りょうたはこくんと頷いた。
「良太」と夫が言う。「ここはおばあちゃんちじゃない」
 見つめ合う良太と夫。
「だからな」と続ける。「今度から『おばあちゃんち』じゃなくて、『岡田さんち』と言いなさい」
 わかったな、と夫は言った。
 ロジカルな夫だ。これだから夫は、頼りになる。

 

なにかが起きているのか


「冷蔵庫の中を見てみろ。そう言っていた?」
 警察官であり彼女の学生時代の先輩でもある私は、通報を受けて彼女の家で事情を聞いている。
「えぇ」
「声に心当たりは?」
「ありません」
 みゆきは震えている。恐怖のせいかもしれないし、部屋の冷房が十八度に設定されているせいかもしれない。

 

「それで、言われた通りに冷蔵庫を開けたと」
「はい」
 彼女の許可を得て冷蔵庫を開けると、大きな鍋が入っていた。蓋を開けると、中には何やら混濁した液体と、いびつな形の肉片が浮いている。
 昨晩みゆきが作った煮物だ。
「何か、おかしなものが入っていたかい?」
 鍋の蓋を閉めながら尋ねる。
「いえ、これと言って変わったことは……あ、あれ? きゃっ」
 庫内の薄型の引き出しを開けた直後、みゆきは小さく叫んで身を引いた。
 ……これは酷い。引き出しの奥には、腐った人参が隠れていた。

 

「ち、ちょっと待っててください。今片づけます」
 そう言うと、みゆきはキッチンペーパーとビニール袋を用意した。ビニール袋で人参を掴んで、人参から漏出した体液をキッチンペーパーで拭きとる。それらを片づけると、不自然なほど何度も何度も手を洗った。
 この件には何か複雑な事情が絡んでいるのではないか。彼女は何かを隠しているのではないか、ついそう勘ぐってしまう。

 

 みゆきが手を綺麗に拭き終ると、まるで見計らったように電話が鳴った。私は三センチ、みゆきは四センチ飛び上がった。
 恐る恐る受話器を取り耳に当てると、みゆきは硬い顔をした。そのまましばらく何かを聞いていたかと思うと、突然叫んだ。
「意味が分かりません! やめてください!」
 そして、受話器を乱暴に置いた。感情的になっているようだ。
 私は努めて冷静に聞く。
「どうした? 件の電話と同じ相手だったのか?」
「それが……」
 みゆきは相手の発言を思い出すようにゆっくりと話した。固定電話の通話料金が安くなるという内容のセールスの電話だった。

 

「もしかすると内容はカモフラージュで、例の電話の主がキミの様子を窺うためにかけてきたのかもしれない」
「まさか……一体どうして……」
「何か思い当たる節は?」
「ありません。本当に、何も……」
 みゆきは大げさに自分の肩を抱いた。震えている。恐怖のせいかもしれないし、部屋の冷房が十八度に設定されているせいかもしれない。
「ご主人は?」
「すぐに連絡したんですが電話に出ませんでした」
 みゆきの夫は公務員をしていて、話によるとほぼ毎日定時上がりですぐに帰ってくるという。現在時刻は午後五時五十九分。
 カチリ。
 複雑なデザインをした掛け時計が、六時を表示して小さな音を鳴らした。

 

「おかしいわ」
 ソファに腰かけて状況を整理していると、みゆきはそう言って眉間に皺を寄せた。
「どうして」
「主人はいつも六時十分までには帰ってくるんです! 遅れる時には必ず連絡が来るんです!」
 時刻は六時五分を指している。
 何かが起きている。
 私たちの目は、玄関のドアに釘付けになった。きっと、みゆきの夫はあと十分経とうが一時間経とうが、帰ってこないのではないか。考えてはいけない妄想ばかりしてしまう。
 そして、その予想は見事に、外れた。夫は六時八分に帰ってきた。
 おかしな電話を受けたことを夫に報告すると、その電話は私だ、と彼は言った。社用の電話が変わったらしい。

 

 パトカーに乗り込み、窓の外を睨む。空は、憂鬱で不気味な色をしていた。
 黒くて巨大な何かが、今日も夜を連れてくる。