なにかが起きているのか
「冷蔵庫の中を見てみろ。そう言っていた?」
警察官であり彼女の学生時代の先輩でもある私は、通報を受けて彼女の家で事情を聞いている。
「えぇ」
「声に心当たりは?」
「ありません」
みゆきは震えている。恐怖のせいかもしれないし、部屋の冷房が十八度に設定されているせいかもしれない。
「それで、言われた通りに冷蔵庫を開けたと」
「はい」
彼女の許可を得て冷蔵庫を開けると、大きな鍋が入っていた。蓋を開けると、中には何やら混濁した液体と、いびつな形の肉片が浮いている。
昨晩みゆきが作った煮物だ。
「何か、おかしなものが入っていたかい?」
鍋の蓋を閉めながら尋ねる。
「いえ、これと言って変わったことは……あ、あれ? きゃっ」
庫内の薄型の引き出しを開けた直後、みゆきは小さく叫んで身を引いた。
……これは酷い。引き出しの奥には、腐った人参が隠れていた。
「ち、ちょっと待っててください。今片づけます」
そう言うと、みゆきはキッチンペーパーとビニール袋を用意した。ビニール袋で人参を掴んで、人参から漏出した体液をキッチンペーパーで拭きとる。それらを片づけると、不自然なほど何度も何度も手を洗った。
この件には何か複雑な事情が絡んでいるのではないか。彼女は何かを隠しているのではないか、ついそう勘ぐってしまう。
みゆきが手を綺麗に拭き終ると、まるで見計らったように電話が鳴った。私は三センチ、みゆきは四センチ飛び上がった。
恐る恐る受話器を取り耳に当てると、みゆきは硬い顔をした。そのまましばらく何かを聞いていたかと思うと、突然叫んだ。
「意味が分かりません! やめてください!」
そして、受話器を乱暴に置いた。感情的になっているようだ。
私は努めて冷静に聞く。
「どうした? 件の電話と同じ相手だったのか?」
「それが……」
みゆきは相手の発言を思い出すようにゆっくりと話した。固定電話の通話料金が安くなるという内容のセールスの電話だった。
「もしかすると内容はカモフラージュで、例の電話の主がキミの様子を窺うためにかけてきたのかもしれない」
「まさか……一体どうして……」
「何か思い当たる節は?」
「ありません。本当に、何も……」
みゆきは大げさに自分の肩を抱いた。震えている。恐怖のせいかもしれないし、部屋の冷房が十八度に設定されているせいかもしれない。
「ご主人は?」
「すぐに連絡したんですが電話に出ませんでした」
みゆきの夫は公務員をしていて、話によるとほぼ毎日定時上がりですぐに帰ってくるという。現在時刻は午後五時五十九分。
カチリ。
複雑なデザインをした掛け時計が、六時を表示して小さな音を鳴らした。
「おかしいわ」
ソファに腰かけて状況を整理していると、みゆきはそう言って眉間に皺を寄せた。
「どうして」
「主人はいつも六時十分までには帰ってくるんです! 遅れる時には必ず連絡が来るんです!」
時刻は六時五分を指している。
何かが起きている。
私たちの目は、玄関のドアに釘付けになった。きっと、みゆきの夫はあと十分経とうが一時間経とうが、帰ってこないのではないか。考えてはいけない妄想ばかりしてしまう。
そして、その予想は見事に、外れた。夫は六時八分に帰ってきた。
おかしな電話を受けたことを夫に報告すると、その電話は私だ、と彼は言った。社用の電話が変わったらしい。
パトカーに乗り込み、窓の外を睨む。空は、憂鬱で不気味な色をしていた。
黒くて巨大な何かが、今日も夜を連れてくる。