もうたべられないかな、と思ってからさらに三日後、もう食べられないよな、と思う
収穫された野菜は生きているのだろうか。
宇垣美里は涙を流しながらそう思った。
彼女のその涙は、切っていた野菜に由来する。玉ねぎをみじん切りにしている時のことだった。
少なくない年月を生きてきて、初めて抱いた疑問だ。この歳になって湧き出てくる疑問としては大変に純粋で、それだけで少し幸せな気分になる。新しい曲のフレーズを思いついたような喜びがあって、一人きりにもかかわらずキッチンで目を見開いた。とはいえ宇垣美里は作曲家ではない。自分がシンガーソングライターで、何気ない暮らしの中で歌詞やメロディーが生まれる時はこんな気分なんだろうか、と考えた。
宇垣美里がそう思ったのは、自分が手に掛けた玉ねぎを憐れんでのことではない。そこまで繊細な人間ではない。
彼女の目に映った、じゃがいもがそうさせた。
そのじゃがいもは、キッチンの隅にある野菜かごに入っている。ラタン製の野菜かごにぽつんと、取り残されたように一つだけ。
いびつな楕円体の数か所から、まるで異星人の触手のように芽が出ていた。
それを見てふと、そう思ったのだ。
肉はもちろん、果物も野菜も、本体から切り離された彼らは商品となり売りに出され、消費されるのを待つ。
消費するのが遅れたり、あるいはうっかり忘れてしまうと、彼らは腐ってしまう。だから本体から切り離された彼らのことを、宇垣美里は死んでいるものとして無意識のうちに思い込んでいた。
しかし今、「見ての通り成長期だぜ」と言わんばかりに芽を伸ばすじゃがいもを見て、野菜の生死の基準が全く分からなくなってしまった。野菜にとって、生きるとは、あるいは死ぬとはどういうことなのだろうか。腐ってしまうじゃがいもと、芽を伸ばすじゃがいもの違いは。
宇垣美里は料理を作り終えて、盛り付けた皿をリビングのテーブルに並べていく。
テーブルには、オーザックの袋がある。じゃがいもを揚げたスナック菓子だ。
しかし、オーザックの袋の中には、オーザックは入っていない。
入っているのは髪の毛だ。
もちろん、人間の。他でもない宇垣美里の髪の毛だ。
彼女にはそういった癖があって切った髪の毛を集めている。というわけではない。
宇垣美里は昨晩、自分で少し髪を切った。集めた髪を、近くにあったオーザックの空き袋に入れた。そしてそれを捨てるのを忘れていた。それだけのことだ。
ソラソドソラソ。
お米の炊き上がりを知らせる「アマリリス」のメロディーが鳴った。
蒸らしの時間を考えて、明日は十五分早くお米を炊こう、と宇垣美里は思った。