変な方向に行った
あれ、これってなんで?
慣れ親しんだものについて突然疑問を抱くことがある。
それについて自分なりに考え、答えに辿り着くとそれはそれは嬉しいものだ。例えそれが正解でなくても、自分なりの説ができると人に話したくなる。
ちょうど今日、テレビを見ていてふと疑問が湧いた。
スイカ割りをしている。
目隠しをした女性がぐるぐると回り、ふらつく足取りでバットを振り上げる。
周囲からは右!とか、もうちょっと左!とか、そうそうそこ!とガヤが飛ぶ。
振り下ろしたバットがスイカに命中すると、ぬるい歓声が上がる。
なんだこれは。
意味が無い。
目隠しをするのも回転させるのもスイカの位置を不明確にするためじゃなかったのか。
こんなのは間違っている。
自力でスイカを割るからこそ楽しいのではないのか。
目隠しをする前に目測をつけておいて、回転で失われる平衡感覚を一から十まで数える声の場所を頼りに補う。
例え付け加えるにしても「ここだよ!」と一度だけチャンスを与えればいいのだ。
しかし私がいくら正しいと言っても、一人きりで叫ぶ正義ほどタチの悪いものは無い。
ここは反対側の、意味のわからない優しさで微調整までしてあげる人間の意図も考えてみよう。
私が大好きなアジアンカンフージェネレーションの曲にこういう歌詞がある
「あの日僕がセカンドフライを上手に捕ったとして それで今も抱えてる後悔はなくなるのかな」
あの日スイカを上手に割れなかったことで今も後悔を抱えている人がいるのかもしれない。
だとするとあれは、あの声はスイカを割れなかったことで一生後悔を抱えている人の声と同じなのかもしれない。
あるいは目隠しをした人にその後悔を抱えさせないための天啓のようなものなのかも。
人々が助け合うべきだというのなら、私の抱いていた疑問はきっと爪弾きにされてしまう。スイカ割りで一生を棒にふる人間が一人でも減るように、周りの人間はやはり声をかけるべきなのかもしれない。
……だめだ。やっぱりそんなのはごめんだ。
テロリストと言われようと、私は自力でスイカを割る。外野は黙っていてくれないか。
振り下ろした先の確かな感触に満足して、私は目隠しを外す。周りにはもう誰もいない。一人きりだ。
足元に目をやると、真っ二つに割れたそれはスイカではなく私自身の頭だった。