悪魔が笑う
私は、悪魔である。 理不尽な裁きを与える。
夕刻のオフィス街である。
帰路につくスーツの群れに、一人の男が紛れている。
と言っても、男は何も悪いことをしたわけではない。どこにでもいる普通の、平凡なサラリーマンだ。
本人からすると紛れているつもりもないだろうが、これといって特徴のない男の様相は、あまりにも群れに馴染んでいて彼自身がまるで保護色である。
「私は、悪魔だ。お前に裁きを与える」
交差点を渡り向かってくる男に立ちふさがった。
「ああ、そうですか」
男は疲れている。全く興味が無さそうに、私を避けて通り過ぎる。
背中を丸めて歩く男。冬であろうと夏であろうと、窮屈そうに歩く。
男の足元に突然、犬が現れる。ロボットの犬だ。「キャン」と鳴く。
慌てた男の足はもつれ、突っ伏すようにして倒れる。
なんだよ、と呟く男。目線を上げると、ビルは溶け、街路樹は紫色の血を吐いている。
「私は、悪魔だ。お前に裁きを与える」 私は男を見下ろす。
先ほどまであんなにもたくさんいた人々の姿は今やどこにも見当たらず、自分の気が狂ってしまったのか、と男は考えている。
「違う」私は男の頭に返答する。「お前は、『魔』を見ている」
「なぜ私が」
こんな目に、と男は考える。
それもそのはず。何も悪いことはしていない。会社の金に手を付けたわけでもないし、新卒の女に唾を付けたわけでもない。新卒の男のみずみずしいニキビを舐めたわけでもない。
何故男が選ばれたのか。
運である。こういった人種は、時に強い運を持っている。不運というものだ。世界は平等ではない。
「私は、悪魔だ。お前に裁きを与える」
三度目の宣言に、男の心に小さな火が灯る。抗議の火だ。
「冗談じゃありません。冗談じゃない」
「試練を乗り越えなければ、お前は裁きを受ける」
「え?」
提示した条件に、男の心に小さな光が灯る。希望の光だ。
試練を乗り越えなければ、裁きを受ける。試練を乗り越えれば、裁きは受けない。
「何か面白いことを言え」悪魔は男に試練を突き付けた。
「お前の命運は、これにかかっている」
男は眉をひそめる。
こんな場面で面白いことなんて浮かぶものか、と試練を放り出す男の頭の中に、波を投げる。疑念を希薄化する波だ。
素直に考え始めたことを察知し、私は閲覧を解く。そして彼の言葉を待つ。
男は目を閉じた。そして言った。
「消費期限を探している間に、消費期限が切れたらしいです」
私は口元に指先を当て、ぷぷぷぷ、と吹き出した。
空間がキュッと音を立てて捻じれ、男はその狭間に吸い込まれる。元の次元に戻ったのだ。
私は、悪魔である。
理不尽な裁きを与える。
帰りの魔界電車でも、マスクの下で思い出し笑いをしている。