コーヒーは無糖。
下着は麺100%。
風呂の温度は42℃。
扇風機の風量は弱。
誰にでも、こだわりとまではいかなくとも、なんとなく好き好んでいる決まりごとというものがあると思う。
私にとってのそれはトイレットペーパーのダブルで、むしろシングルを好き好んで買う人なんているんだろうかとさえ思っていた。けれども少し調べてみると、シングルとダブルの割合は意外にも拮抗しているらしい。
世間様の意見を知らない野郎が「意外にも」などと決めつけた発言をするのはあまりにも無知で恥ずかしいことだと思い、ああ、自分はまた知ったかぶっていたのかと反省させられた。反省はしていない。
ということでうっすらと花の香りのするピンクのダブルを使っているのだけれど、最近少し気になることがある。トイレットペーパー、略してトイぺの減りが近ごろ早くなっている気がする。
用を足す回数が増えたわけではないし、ヤツがしつこくなっているわけでもない。
芯ありのトイペなんてこんなもんだっけかなぁとか、気のせいかなぁと思いつつ日々を送っていたのだけれども、やはりなんだか拭い去れない違和感があるのだ。トイレだけに。
自分に原因があるわけではなく、気のせいでもないのだとしたら、他にどんな可能性が考えられるだろうか。
トイペが自然消滅するという現象を今まで見聞きしたことは一度もないけれど、私の常識ノートに刻まれていないだけで、それは決して非現実的な現象ではないのかもしれない。トイレの湿度や温度、直射日光の有無などの条件が揃えば、トイペが霧散するという現象が起こるのだろうか。
やはりそれは考えずらい。だとすると、可能性として考えられることは私以外の誰かがこのトイレを使っているということになるのだけれど、このトイレを使っているのは私一人だけなのだ。
それなら、誰かがこのトイレをこっそりと使っている?
そう。こだわりがどうとか、そういった類の話ではない。これは「怖い話」なのかもしれない。
少し、昔の話になる。
隅田川沿いのアパートに住んでいた頃、毎朝すれ違う男がいた。
部屋を出て、浅草駅に向かう。電車の時間に合わせて出勤をしているので、この時間にこの道を通る、というのがほぼ決まっている。
そんな生活をしていて、ある日ふと気がついた。私は毎日この道であの男とすれ違っている、と。
少し背の高い、眼鏡をかけた男。年の頃三十ほどの黒髪で、清潔そうな身なりをしている。
毎朝毎朝決まった1ブロックですれ違うというのは少し気味が悪いと思ったりもしたけれど、私が時間通り動いているように彼も時間通りに動いているなら、毎回同じ場所ですれ違うというのも当たり前のことだと言える。
ある日のこと。腹を下した私は、アパートを出る予定の時間を越えてもトイレから出ることすらできずにいた。
私は昔から腹が弱く、ちょっとしたきっかけで腹を下してしまう。もはやそれをストレスに感じることすらなかったけれど、その日の腹痛は強敵だった。
私の腹痛というのはパターン化している。一度目、二度目は下っ端の攻撃で、三度目のアタックで大将が現れる。そいつをトイレに叩き落としてしまえば勝ち。けれどその日は違った。
三度目に現れた大将を見事倒したにもかかわらず、腹痛は治まらない。腹の底でぐるると竜の唸り声が聞こえた。
こいつはやばい。規格外だ。
そう判断した私はトイレに腰を据えたまま、腹に拳を押し当ててヘソを中心にグルグルと回した。竜は苦しそうにぐるると唸る。けれども一向に飛び立つ気配はなく、どっしりとして動かないままだ。
戦いは拮抗し、時間だけが過ぎていく。チラリと腕時計に目をやった。その時だった。
ガチャリ。部屋のドアが開いた。
それが一体何の音なのか判断できず、私は一瞬固まった。けれど次の瞬間、心臓が早鐘を打つのがわかった。誰かが部屋に入ってきたことを、脳よりも早く体が気付いたのだ。
玄関でがさがさと音が鳴ってから、廊下を歩く音が続く。その足取りに迷いはなく、日常すら感じさせるほどだ。
だからつい、トイレにカギをかけるのが遅れてしまった。カギに手を伸ばすより少しだけ早く、トイレのドアが開かれてしまったのだ。
「だめだよぉ」
ドアを開けたのは男だった。
男は言った。清潔そうな身なりをしている眼鏡の男。
そう。そいつは、毎朝すれ違っているあの男だった。
「早く出てよぉ」
男は困った顔で言って、ドアを閉める。足音は遠ざかり、八畳一間からテレビの音が聞こえ始めた。
なんだ。なんだ。一体なんなんだ。
私はパニックになり、叫んだ。
「出てけ! 出てけ出てけ出てけ出てけ!!!!」
あれほどまでに狂乱したことは後にも先にもない。恐怖のあまり一言目に発した言葉以外何も出てこないけれど、この声を止めてしまうともう終わりだとなぜか直感した。
「デテケデテケデテケデテケ!!!!!!」
一瞬で声は枯れ、腹痛はいつの間にか消えた。叫びが全くの無音になるまで叫んだ。するといつの間にか、彼自体もどこかに消え失せていたのだ。
あれから十年近く経った。
もしかすると、あいつがまたやってきたんじゃないだろうか。
あいつはきっと、ただの変質者じゃない。思い返すと、私と同じ顔をしていた気がするのだ。
だめだよぉ
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