変な話
猫が飛び出してきたのだ。
その日、私たちは久しぶりに二人で晩御飯を食べに行った。その帰りの出来事だ。
人気も車っ気もない山中を走っていると、道路脇の茂みから突然猫が飛び出してきた。
ちょうど話題が尽きていたのでカミ子は運転に集中していただろうし、その猫が目につきやすい真っ白な猫だったおかげもあってか、どうにか轢き殺さなくて済んだ。
びっくりしたぁ。あっぶな……。小田ちゃん大丈夫? カミ子こそ大丈夫? と私たちはひとしきり驚きを口に出したりお互いを心配しあって、それでようやく落ち着いた。
急ブレーキと私たちの興奮が夜の中にすっかり吸い込まれると、山中はしんと不気味に静まり返る。ヘッドライトに照らされたアスファルト道を、一匹の虫がふらふらと飛んでいた。
深呼吸を一つして、カミ子は再び車を走らせた。
「あーびっくりした……」
よかった、と思った。私が運転していたら、もしかしたら猫を轢くか脇の茂みに突っ込んでいたかもしれない。
カミ子を見ると、ハンドルを握る手と目に力が入っているのがわかる。
「ゆっくり帰ろ」
と私が言うと、カミ子はバックミラーをちらと見てから、「あのね、ちょっと前の話なんだけど」と言い、ある話をしだした。変な話だった。
「この前、仕事帰りにこの道を走ってたのね。夜中に。仕事で遅くなっちゃったから、十一時くらい。毎度のように、走ってる車は全然いなくて」
市街地と私たちの町を繋ぐこの山道は、舗装と整備はされているものの、車通りがほとんどない。山中を通過するトンネルを含む新道ができてからは、カーブも多く街灯もろくに灯っていないこの道を通るメリットがほぼ無くなってしまったからだ。
それなのにわざわざこの道を選択したことを、私は疑問に思っていた。その話をするために、ここを選んだのだろうか。
「金曜日でね、あー今週も一週間頑張ったって解放された気分になって、ちょっと遠回りしたくなっちゃったからさ、ここ走ってたの」
「うん」
「くねくねしてるからさ、私意外とこの道好きなの。鼻歌うたいながらさ」
「そうなんだ」
そういう人もいるにはいるだろうな、と思う。
「たまに木の枝が落ちてたりするからさ、初めは気が付かなかったの」
カミ子はチラリと私を見た。
なにに? と私は尋ねる。
「音がするのよ。妙な音が」カミ子は言う。「後ろの席から」
「えっ」
サッと鳥肌が立つのがわかる。怖い話は嫌いだ。私は後ろを振り向けなかった。
「じゃっ、じゃっ、じゃっ、じゃく、じゃく、じゃく」
「ねぇ……」
意に介さないように、カミ子は続ける。
「じゃく、じゃく、じゃく、じゃく、って。あ、なんかタイヤに絡んじゃったかな、とか最初の方は思ったんだけどね、どうやら違うって、車の中から聞こえるんだって気付いて」
私はもう耳を塞ぎたかった。けれど興味がぎりぎり勝ってしまい、できなかった。
「それで、バックミラーでね、後ろの方をちらっと見たの。そしたら」
人が乗ってたの、とカミ子は言った。
安い話だが、それでも私にとっては充分怖い話だ。耳を塞がなかったことを後悔したが、もう遅い。
「でもよく見えないのよ。ここってほら、暗いから」
「ねぇ。やめてよカミ子」
私は意味のない抵抗をした。
「音はずっと聞こえてるの。だけどルームライトを点ける勇気は出なくってさ。そこでちょうどここに差し掛かったの」
車がゆっくりと止まった。私たちの目の前に、トンネルが待ち構えている。古びてはいるが、一応街灯は灯っている。今では「旧トンネル」と呼ばれている。
「トンネルの直前で止めたの。ほら、入り口からああやってオレンジの灯りがあるじゃない。もうそれで見ちゃうしかないって思って」
私は身構えた。突然大声でも出されたら、私はきっとどこか痛めてしまう。
「それでね、私、そっと、そーっと目を上げてバックミラーを見たの。そしたらやっぱりいたの。髪の長い、怖ーい顔した女の人が映ってて。金縛りに遭ったみたいに私、目が逸らせなくなったの。それで……」
ごくり、と私は喉を鳴らす。
「じゃく、じゃく、じゃくって、ずーっと音が鳴ってるの」
「カミ子ぉ」
「私、あっ、って」
カミ子は私を見ていなかった。まるで今がその時のように、バックミラーに視線をやって言った。
「私、気付いたの。わかったの、それ……」
カミ子も一つ、喉を鳴らした。
「もやしを咀嚼する音だったの」
えっ、と私は言った。
ならよかった。
はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」