スウィーテスト多忙な日々

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おもい あのこと あのこと

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「ほんと、罪な女よね」
 鏡の前で、今日も彼女は呟く。うぬぼれた奴だ。
 読んでいた本から顔を上げて、私は彼女に目をやる。
 はあ、とため息をついて、彼女はそれ以降黙り込んだ。

 我が家には2.5キロの重りがある。
 円形で、真ん中に丸い穴の開いたドーナツ状になっている。筋力トレーニングに使うダンベルだかバーベルだかの重さを調節するために使うものだろう。それ以上は知らないけれど、きっとそういうものだと思う。それが一つだけある。
 そしてそれが(私は「彼女」と表現しているのだけれど)喋るのだ。会話をする能力を持っている。

 私は物心ついた時から犬や猫や木々や物の声を聞くことができた、というわけではない。
 特別なトレーニングや信仰の結果特別な力を手に入れた、というわけでもない。
 そんな特殊能力は持っていないし、そんな非科学的なことは信じていない。信じるつもりもない。
 ただ一つ。とある日を境に彼女の声が聞こえるようになった。彼女と会話ができるようになった。というだけのことだ。特に望んだわけでもない。
 保身のために言っておくが、私は決して頭がおかしいわけではない。さすがに彼女の声が聞こえた時は自分の耳と頭を疑ったが、健康診断の結果は正常だし、不安定な感情も抱えていない。経済面で困窮しているわけでもなく、仕事も順調だ。ごくごく普通に生活を送っている。
 その生活の中に、彼女の声が聞こえるというただ一つの異質が混じっている。それだけのことだ。
 私が自分から話しかけることはしない。彼女が何かを言ったり、私に質問してきた時に気が向けば返事をしてあげている。

 彼女は元々、当時付き合っていた彼氏の家にいた。いや、「あった」と表す方が正しいだろう。
 別れることになってしまったその日、私は彼女をもらった。思い出の品々はほったらかしにして、彼女だけをもらった。何故かは自分でもよくわからない。彼とはそれきりだ。それ以降は当然、連絡が来ることもない。
 その当時から彼女の声を聞くことができた。だからもらった。というわけでもなくて、彼女が喋りだしたのは私が彼女を家に持ち帰って以降のことである。

「はーあ。やんなっちゃう」
 こういう調子で、彼女は鏡に向かってなげく。
 前の家が恋しいのか、彼の調子を尋ねてくることもある。知らない、と私は返す。すると彼女は「あらそう」とか「ほんとかしら」とか、質問か独り言かわからないような気のない声を出す。

 彼女はどうして話すことができるのだろう。
 口はもちろんないしスピーカーや動力も備わっていない。ただの重りなのだから当然だけれど。
 それでも彼女は確かに話す。なぜ「彼」じゃなく「彼女」だとわかるのかというと、単純に女口調だからだ。心なしか声色こわいろが私に似ている気もする。

 

「ほんと、罪な女よね」
 彼女は呟く。
 直接見ても、鏡越しに見ても、やはりただの重りだ。
 2.5kgと刻印された文字は、所どころ赤黒く染まっている。